父のお買い物

「おかーさん、ちょっとちょっと」
「なに」
「これ。安くて、健康に良いそうだよ。買ったほうがいいよ」
 ふとんの中から、新聞の広告欄を指し示す父。
「あーそうやね。あとで頼んどくわ」
 そう答えておいて、実際には注文しない母。でも父は満足する。すぐに忘れるので、「このあいだのあれはとどいたか?」と聞いてくることはない。
 父が寝込んだとき、大きな介護ベッドをいれるにあたって、部屋の使い方を見直した。スペースを作るのに4畳がいっぱいになるくらいの物品を捨てた。
 時間があったらもっときれいに分類して、畳んで箱詰めして出したのだが、そんな余裕はなかった。あれやこれやをつぎつぎにビニール袋へ放り込んで玄関に出し、全て業者さんに引き取ってもらった。
 父の服や、新品のパック入りの下着、開けていない健康食品や、組み立てていない運動器具。災害用の非常食品(期限切れ)。大量の安い傘。大量の雑誌など。
 私は買いすぎたときは自分に説教している。使うものだけ買いなさいって。
 でも、ものを買うことって生きることでもある。仮に使わないものを買ってしまったとしても。
 父が買い込んだものはどれも父が生きるために必要だと思って、買ったものだった。ホコリをかぶるほど放置したとしても、買うと決意したときは「これを着てでかけるぞ」「これを飲んで長生きするぞ」と思っていたはずなのだ。
 父が何かを買おうとする様子って、元気な頃の父を思わせる。
 もうお出かけできないし、多分そんなに長生きできないけど、お買い物しようとする父を目撃すると嬉しくなる。

 

しんどくはない…


私「介護で何が一番しんどい?」
母「べつにしんどくない」
私「私はおむつ替えしんどいよ?お母さんは、食事介助?おむつ替え?しょっちゅう呼ばれるのがしんどい?」
母「どれも、しんどくはないんよ。ただ呼ばれたときに、『あ、めんどくさー』とは思う。あと、たまに、『これが何年続くんかなー』とは思う」
私「施設にいれる道もあるよ」
母「まぁまだいいよ、かわいそうだから」
私「でも無理するとお母さんが先に死んじゃうよ」
母「先に死ぬのは困るなぁ。まあ、今は若い頃の写真見ながら頑張るわー。こういう時もあったんだーって」

 

今日、若い頃の写真を介護士さんに見せて「お父さん痩せてる!え!まって!お母さんすっごくかわいいー!」と言われて喜んでいた母だった。

zine“Link”のご紹介

大田駅からほど近いコワーキングスペース 、おおたfabさん発行のzine〝Link〟に参加しています。

紙媒体で買うこともできますし、Web上で読むこともできます。

過去のリンクを貼りますのでよかったらお読みください。

 

Link vol.14冬号 テーマ「手帳」

https://ot-fb.com/community/9571/

 

Link vol.13秋号 テーマ「食」

https://ot-fb.com/community/9234/

 

Link vol.12夏号 テーマ「夏色」

https://ot-fb.com/community/8947/

 

Link vol.11春号 テーマ「電気」

https://ot-fb.com/community/8591/

 

Link vol.10冬号 テーマ「つまらない」

https://ot-fb.com/community/8277/

 

筆ペン

 コロナ禍のちょっと前に、とあるエッセイ(確か若松英輔さん)を読み、好きな言葉を抜書きすると良い、心にも良いし、文章の練習にもなる、的なことが書いてあるのをみつけて、へーと思った。

 その後、コロナ禍に入り、生活の制限が厳しくなり、コーヒー屋も閉まり、本にも飽きて、土手の道を歩くしかなかったころ、上の言葉を思い出して、一時期、抜書きしていた。

 好きな本に付箋を貼り、小さい手帳に1行から3行、ぽつぽつと写し書きする。いつも仕事で使ってたジェットストリームボールペンを使おうとしたら、なぜか力が入らず、弱々しいカシャカシャした文字になる。しかたなく、絵でよく使われる細いサインペンか、筆ペンで写し書きするようにした。

 使ってみて良かったのは筆ペンである。

 まぁ筆ペンだと普通に下手だし時間がかかる。線がボールペンより太いから、文字はどうしても大きくなるし、トメ、はらいを意識しながら書くと丁寧にならざるを得ない。

 でも、書いた字が気に入らなくて書き直したり、レイアウトを変えて書いたり、線の込み入った漢字を取り出して練習したりするうちに、なぜか気が晴れた。書き終えたページも、練習の字や書き損じの字も含めて、全体的に気に入った。下手な字なのにそれでも満足で、スケッチブックみたいだと思った。きっと絵を描く人はこういう気持ちになりながら描いているんじゃないかと思ったりした。

 

そのノートはもう書いていないが、筆ペンは今でもたまに、メモを書くとき使ったりする。

無知と悪あがき

本を読んでいると、知らない人名とか横文字とか専門用語がポロポロ出てくる。ググってもすぐ忘れるので、スルーすることも多い。

「もう少しおとなになれば、こういう言葉を全部あやつれるようになるんだ…」と長らく思ってきたが、人生を折り返し、なんだか最近、そんな単語を使いこなす機会は生涯ないように思えてきた。

科学系も歴史系もだめで、ほーんと無知なのだが、さっき悪あがき的に、世界史図録のタペストリーを買ってしまった…。一応ワクワクする。

思えば、子供のころから、無知で恥をかいてきた。

中学だったと思うが、後ろの黒板に「明日の授業の予定」を書くようになってて、そのスペースはよく男子の落書き場になっていた。とある夕方、私は、「明日の社会:『大正デモクラシー』」という記載を目にして、なんかツボに入ってしまい、「あはははデモクラシーだって、あははは」と爆笑した。めちゃくちゃ笑ってたら、友達が不思議そうに聞く。

大正デモクラシーがどうかしたの?」

そうか。これ男子の書いたギャグじゃないのか。「正式な」社会の単語なんだ。大正、でも、暮らしー!的ななんか意味無しギャグかと思って、しかもそれがツボに入ったとはとても言えなくて、モゴモゴ言ってごまかしたのだけど、その時ほど強く誓ったことはない。

もっと社会も理科も勉強しようって。

でも強い誓いはもろくもやぶれて、高校では日本史堂々の1点をとったりして(しかも前に「11点」をとって先生に警告されてたのに1点をとったのである。けんかを売ってると思われてもしかたない…)、無知は直らないまま中年に。

そんな私が最近大好きなのが、ぬまがさワタリさんだ。ぬまがささんはイラストレーターで、好奇心旺盛で凄まじい読書家でとても魅力的なイラストを描く。

不思議な生き物を紹介する本を出版されているし、生き物関係のツイートが多いが、面白い映画やドラマ、人文科学系の本の紹介も多い…。なんか、もう憧れる。ぬまがささんのツイートを追って本を買ったりもしてあいかわらず読めてないが、一応もうちょっと悪あがきしようと思う。

悪あがきしようと思ったりもうしらんわと思ったり色々な日々だが…

 

大好き。

ぬまがさワタリさんのXアカウント。

https://twitter.com/numagasa?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

亀のような日々

どうしてそんなふうに受け取るの?どうしてそんなに意地になるの?どうしてわかってくれないの?て思うことはよくある。仕事でも。

学生の頃は「話せばわかる」という幻想を信じていた一方で、たとえば、激しく怒ってる人を納得させねばならぬとか、そんな場面には一度も遭遇しなかった。だから、仕事を始めて自分の無力さを痛感したし、よく怒ったり泣いたりした。

仕事を始めて15年経った頃から、パブリックな場で感情を爆発させることはなくなった(10年では無理だった)。今は、まるで亀のような忍耐を持って仕事にあたっている。でもそれは良いものではなくて、ただの打算である。何度も自分で自分の爆発の尻拭いをしてほとほと疲れ、これならキレないほうがなんぼか楽だと思ったから、耐えているに過ぎない。

どストレートにひどいことを言う人もいれば、皮肉の止まらない人もいる。それでも、それこそ亀のような速度で何年もかけて、ゆっくりと、お互いに話ができるようになる場合もある。でも、どうしてもそうならない場合もある。

どうしてそんなことを言うの?なぜ、意地を張ってそんなことにこだわるの?相手には理由がある。私にはわかっている。でも、どうにもできない。

そんなわけで、仕事でしんどいとき、やることは決まっている。とにかく話を聞き、決定的なことを言わないで、なんとかまともな言葉を相手にかけるよう努める。納得してもらうのが無理なら、今日のこの場面をしのぎ、次に繋ぐ。時が変われば、また違った雰囲気で話せる機会もあるからだ(そういう悠長さが許されるのは、ありがたい)。

とてもしんどかった日は、その日のすべての仕事が終わってから、自然と同僚、皆で立ち話が始まる。小さな職場だから、今日なにかがあったということはお互いにうすうすわかっている。みんなで話す。こんなふうだった、あんなふうだったと。10分くらい話してから、引き止めてごめんねと言い合い、挨拶を交わし家路につく。

敵意に気づかないふりをするのは疲れる。私が聖人君子のような優しい人だと思ったら大間違いだ。なけなしの冷静さをかきあつめて心を奮い立たせ、なんとか座っているに過ぎない。まともに受けとめないように気を付けても、いくらかは脳髄に染み込んでしまう相手の言葉。ときにはそれが圧倒的な真実であって、自分が惨めな役立たずとしか思えなくなる。

それでも、なんとか次の日には、いや、私は惨めではない、と思い直して仕事に行く。

本屋の探索ルート

人と話していて、本屋に行ったとき、いつもどのあたりを見にいく?という話になった。ちょっと書いてみる。

まず単行本の新刊コーナーに行く。前は、新刊コーナーって見てなかったのだが、「Twitterで見かけて気になった新刊本が、ちゃんと地元書店にも入荷してる…」と気づいてからは毎回見るようになった。たいてい、欲しくなる本は1冊だけ棚にささっているので、それを「私のために入荷ありがとう」と思ってわしづかみにする。

次に、文庫新刊コーナー。単行本で品切れになってたエッセイが、満を持して文庫化されてたりする。「これ」と思ってとびつく。

次に、学術系文庫の新刊コーナー。なんでわざわざ行くかと言うと、ちくま文庫の新刊がここにあるから。ちくま文庫ジャケ買いしている。ジャケ買いしても外れがないのが、ちくま文庫である。

その後、新書の新刊コーナーをサラッと流してから、岩波新書、岩波ジュニア新書、ちくまプリマー新書の棚をじーっと眺める。動きはほぼないが、たまに前からある本の背表紙が急に呼びかけてくることがある。縁を感じたら棚から取り出す。

続いて、文庫コーナーでは、ちくま文庫、中公文庫、河出文庫の棚をしっかり眺める。新刊の段階で見逃してた本をみつけたら、うおっと手に取る。昔の作家のアンソロジー本とか、急に興味を覚えたりする。武田百合子の本は中公文庫のおかげで出会えた。

さらに、児童書の、岩波少年文庫の棚を見に行く。前は棚二段あったのに、今は棚半段しかない。新刊と、ゲド戦記などド定番しか置いてない(減らしたんだと思う)。新刊を逃さないためチェック。

余裕があったら、岩波書店の棚、みすず書房の棚を見て、買おうかな〜どうしようかな〜とずっと思ってる分厚い本(高い)を軽く手に取る。「今日だ」と思ったら買う。ずっと置いてあるから大丈夫、と油断してると、ある日急に目当ての本が消えてたりする。しかたない…。

たまに、安らぎを求めて、心理学の棚とか、写真集の棚とか、ちょこっと見たりする。買うこともある。

で、レジ行って帰る。

このルート辿っても、なんにも欲しくないこともある。当たり前である。週2回はパトロールしてるんだもん。棚の中身はそうそう入れ替わらないもんな。

でも、人に聞いたり、ネットで見たり、本で紹介されてるのを読んだりして、未知の本が急にターゲットになることがありますよね。そんな本について、「多分、ないだろうなー」と思いつつ地元書店に見に行くと、あっさり置いてあったりする。え!私はこの本の存在にずーーーっと気づかずにいたのね!ごめんなさい!ありがとう地元書店!と思う。

その本がとんでもなくよかったりすると、一時的にパトロールルートが変わってしまう。その本の置いてあった棚をスルーできなくなってしまうから。

というわけで小さめの駅ビル内書店ではあるが、ほーんとしょっちゅうパトロールしてる。まじ、潰れないでほしい。オレの本屋と思ってます。明日また、パトロールに行きます。おやすみなさい。