亀のような日々

どうしてそんなふうに受け取るの?どうしてそんなに意地になるの?どうしてわかってくれないの?て思うことはよくある。仕事でも。

学生の頃は「話せばわかる」という幻想を信じていた一方で、たとえば、激しく怒ってる人を納得させねばならぬとか、そんな場面には一度も遭遇しなかった。だから、仕事を始めて自分の無力さを痛感したし、よく怒ったり泣いたりした。

仕事を始めて15年経った頃から、パブリックな場で感情を爆発させることはなくなった(10年では無理だった)。今は、まるで亀のような忍耐を持って仕事にあたっている。でもそれは良いものではなくて、ただの打算である。何度も自分で自分の爆発の尻拭いをしてほとほと疲れ、これならキレないほうがなんぼか楽だと思ったから、耐えているに過ぎない。

どストレートにひどいことを言う人もいれば、皮肉の止まらない人もいる。それでも、それこそ亀のような速度で何年もかけて、ゆっくりと、お互いに話ができるようになる場合もある。でも、どうしてもそうならない場合もある。

どうしてそんなことを言うの?なぜ、意地を張ってそんなことにこだわるの?相手には理由がある。私にはわかっている。でも、どうにもできない。

そんなわけで、仕事でしんどいとき、やることは決まっている。とにかく話を聞き、決定的なことを言わないで、なんとかまともな言葉を相手にかけるよう努める。納得してもらうのが無理なら、今日のこの場面をしのぎ、次に繋ぐ。時が変われば、また違った雰囲気で話せる機会もあるからだ(そういう悠長さが許されるのは、ありがたい)。

とてもしんどかった日は、その日のすべての仕事が終わってから、自然と同僚、皆で立ち話が始まる。小さな職場だから、今日なにかがあったということはお互いにうすうすわかっている。みんなで話す。こんなふうだった、あんなふうだったと。10分くらい話してから、引き止めてごめんねと言い合い、挨拶を交わし家路につく。

敵意に気づかないふりをするのは疲れる。私が聖人君子のような優しい人だと思ったら大間違いだ。なけなしの冷静さをかきあつめて心を奮い立たせ、なんとか座っているに過ぎない。まともに受けとめないように気を付けても、いくらかは脳髄に染み込んでしまう相手の言葉。ときにはそれが圧倒的な真実であって、自分が惨めな役立たずとしか思えなくなる。

それでも、なんとか次の日には、いや、私は惨めではない、と思い直して仕事に行く。