ある夜

--誰か!誰かある!

--お呼びでございますか。

--おおそなたか。なに、大した用ではないのだが、これを見よ。

--これは……いつの時代の書きつけでございましょう。

--うむ。二十四年であろうか。他愛のないものであろうが、一応見てくれぬか。

--かしこまりました。

………………

ごくまれに朝早く外の空気を吸い込むと、肺はたちまちキン、となる。寒いけど気持ちよくてやっぱり毎日早く起きよう、そのためには早く寝よう、と思う。

でも、その日の夜もやっぱり眠れない。今は、2時2分。丑三つ時。冬の丑三つ時は風情がなく、父と母は寝室であたたかな布団にくるまり、やわらかな寝息をたてている。家の中には私の足音と、鞄の中身を出すガサゴソという音が、小さく聞こえるだけ。

夜は私を問いつめたりしない。これはやった?あれは?なんて聞いてこない。だって夜は銀行もどこも開いていない。電車も走ってない。だから何もできない。夜は諦めて私を見る。

いいよ、今できることは何?

誰にも邪魔されずに日記を書こう。低いヴォリウムで昔のドラマのワンシーンを見よう。思いたってクレヨンを探すが、落描きはしてもしなくてもいい。妹の部屋からガラスの仮面の16巻を持ってこよう。読み終わったら寝転がり、天井を睨んでもいい。壁紙の白と本棚の茶色の優しいコントラスト。そのうち、棚の一番上の段の後ろ側には、何の本を置いてたっけ?と考え始めるが思い出せない。手前の本を取り出して後ろを確かめるのはさすがに億劫だ、と思う…。

時計が5時5分だ。いつのまに3時間過ぎた?気づけば猛烈な眠気がまぶたを押さえつけている。抵抗できずまぶたを閉じ、2時間後の頭痛を予想しながら私は眠りに落ちる。

…………

--これは民草が書き散らしたものでございましょうな。なんの価値もございますまい。なぜこのようなものが?

--やはりそうか。そなた処分しておいてくれ。

--かしこまりました。

〈完〉

さらに続き

2024/01/31

2日ブログを書いたけれど、バックグラウンドで全然別のことも考えていた。

ある人がお金を出して一つのプロジェクトを始め、周りに仕事を請け負う人たちが集まったとする。(こう言いかえてもいい: ある人がお金を出して、あるものをつくり、まわりにそれを好む何百という人々がお金を払って集ったとする。)

この場合、「ある人」は出資者でありルールメイカーであるため、構造的に「ある人」と「集う人々」の間には権力の勾配が存在する。

さてそこで、周りに集う人々のうち一人が場のあり方に疑問を感じ発言したとする。「この場の〇〇は△△にしたほうがいいと思うんです」。

この発言は、場を乱すものであり、悪なのだろうか?あるいは子供のようなわがままな戯言に過ぎず、無視されるのが当然なのだろうか?

私が実際に目撃したところでは、発言した人にはよく、次のような言葉が浴びせられる。

「〇〇が当たり前だ」
「そんなこと言うなんて頭が悪い」
「今までの恩をなんだと思ってるの」
「けんかはよそでやってよ、くだらない」

「あなたをみそこなった」
「ここが嫌いなら出ていけ」

声を大にして言いたいが、ルールメイカーと異なる意見を言ったからといって、発言者が抑圧される筋合いはないのである。暴言でない限り、どんな場所でも発言は一つの意見として扱われるべきだ。

ルールメイカーがルールを決める、もっともだ。ただ、ルールメイカーに一言の意見も許されないなんて、そんな話があってたまるかと思う。

その場を信じたいからこそ発信された意見が消される。あるいは消さざるを得ないところまで、発言者が追い詰められる。

同じだ。遠い世界、メディアのなかで報じられていることと同じ現象は、すぐ近くでも起きている。

 

追伸

ルールメイカーが資本主義のこん棒を振り回す限り、集った人たちはルールメイカーと対等なコミュニケーションはできない。

昨日の続き

昨日、原作を損なわない脚色、と簡単に書いてしまったが、厳密に言うと漫画も小説も映像に移そうとすると、必ずいくらかは損なわれてしまうものだと思う。だから、損なうかどうかが脚色の良し悪しではないのではないか(どんなに素晴らしい脚色だって、「原作を損なった」と怒るファンはいるだろう)。

では、いい脚色とそうでない脚色てどこがちがうんだろうか。


これだけは変えないでという原作者のラインを守り、その作品の「テーマ、世界観を忠実に伝えて」なお、「映像的にも面白いものにする」という難題にチャレンジするかどうかなのではないか。そして、その難題にチャレンジできるかどうかは、やっぱり脚本家が原作を愛してるかどうかにかかってるのではないか。

スティーブン・キングているじゃないですか。あの方の「霧」ていう小説を、フランク・ダラボンという監督さんが脚色したけれども結末は小説と違うのですってね。脚色してるとき、結末の改変を思いついた監督は、キング氏に電話し提案をし、話を聞いたキング氏は、
「俺がその結末を思いつきたかった!!」
と歯噛みしたのだそうだ。

すごいな。完成した映画「ミスト」の結末について、観客には賛否両論あるけど、キング氏は絶賛したらしい。ええ話やぁて思う。原作と脚色がしのぎを削ってるんだもの。

2024-01-29

「フィールド・オブ・ドリームズ」という古い映画がある。中学の頃にテレビで視聴して、すごくよかった。

同じ頃、どなたかのエッセイを読んでいて、フィールド・オブ・ドリームズについて「良い映画(原作のシューレス・ジョーがいいからね)」と軽く触れているのを見つけた。そのエッセイでは、他の映画についても「よかった(原作がいいからね)」と何度かカッコ書きで書かれていて、私はほーそうなのかーと素直に読み終えた。

脚色の重要さを知ったのは、もっと、ずっとずっとずーーーっと経ってからで、私は30歳をとうに過ぎていた。「アヒルと鴨のコインロッカー」というめっちゃ良い映画の脚本について、どなたかが、映画にしにくいストーリーなのに、よく原作(伊坂幸太郎著)を損なわずに、素晴らしい脚本にしあげた!と絶賛していたのだ。

そこに至ってようやく、あ、原作付きの映画の場合でも、原作を大切にしつつ、それでいて映画として面白い脚本へと練り上げるのは大変な力量が必要なのだ(当たり前なのだが…大汗)と教えられたのである。1からお話を作るのは素晴らしい才能だが、人のお話を脚色するのもまた違う方面の大変な才能が必要なのだと知った。

その後ネットの評判を注意して見てみると、原作が面白いのに映画がつまらないと言われるのはわりとよくあることなのだとわかった。

でも、いい映画について「原作がいいからね」ですまされることって今でも時々ある。原作付きの映画の脚本家って、いい映画になったら「原作がいいからね」と言われ、つまらなくなったら「脚本が原作を台無しにした」と言われてなんか報われにくいのではと想像してしまう。

その後、「舟を編む」というこれまたすげぇすげぇ映画を観て、私はこの映画の原作者、三浦しをんさんが好きだったから、「三浦さん、良いスタッフさんたちに映画化してもらえて良かったな〜」と読者としてとても喜んだ。俳優さんもスタッフさんの名前もほとんど覚えられない私だが、この時は素晴らしい脚色をされた脚本家さんの名前を是非覚えるべし!とググった記憶がある。渡辺謙作さんという方だった。

先ほどツイッターでこんなツイートを見かけた。脚色と脚本を分けて考えるべきではないかと。脚色は、1からストーリをを作る脚本とはまた違う難しい仕事だと。どうも脚色の仕事を、1からの脚本より低く見る傾向があるのではないか、それだから、脚本家が「自分は脚色だけでなく話を書けます」と言いたくなり原作に改変を加えてしまうのではないかとあった。そういうこともあるのか…?

映像業界のことは全くわからないが、原作、脚色、監督、それぞれの専門家の力が合わさって素晴らしい映像作品が生まれたとき、それぞれの専門家がそれぞれに才能を称えられることを願う。

追伸
舟を編む」は雲田はるこさんにより漫画化もされていて、これまたすげぇすげぇ良い。雲田はるこさんは三浦さんの「舟を編む」連載中、イラストを担当されていた。そのままのイメージでおもろい漫画になったわけで、奇跡!て感じだった。


追伸
三浦さんが大好きなオ◯ジョーが助演(西岡役)として出演してることも、勝手に嬉しかった。三浦さん大興奮だろうね〜とウチの妹と盛り上がった。

バランスディスクにくし

ストレッチと筋トレのコンディショニングラボに定期的に通っている。そこのトレーニンググッズで、1番強烈なのが「バランスディスク」というもの。バランスボールを小型化、平らにした感じ。直径はフライパンぐらいで、ふっくらしたゴム製の円盤だ。

肩幅ほどの間隔をおいて2つ並べ、片足ずつ乗せる。そしてスクワットをする。

あらゆる瞬間に、足首がプルプルガクガクする。気を抜くとすぐ、ディスクを踏みすぎて、踏んだ方向に転びそうになる。足首を前後左右、均等に緊張させつつゆっくり膝を曲げる。ふるえながらスクワットすると、地上とは比べ物にならぬほど疲れるのであった。

バランスディスク、壊れないかな〜。空気が抜けちゃえばいいのに。

先生が目をそらした隙にぷしゅーと穴を開けよう。…すぐに空気が抜けてバレるか…。そうだ、弁だ。漫画「ブラックジャック」で、縦隔気胸の患者の気管のどこに空気の抜ける穴があいてるのか見つからないが、実は穴が弁になっていた、という話がある。

つまり、バランスディスクも、弁状に穴を開ければ、空気がすぐには抜けず、バレにくいのではないか。弁のかたちで穴を開けるには彫刻刀の平刀がいいだろう。少しずつ斜めに刃を差し込み慎重に穴を開ける。えぐった部分を切り取らず、弁のフタとして残す。私が使うときはフタの上に足を乗せて押さえながら使えば良い。空気は徐々に抜けるので、私の利用時間と関係ないときにディスクはぺちゃんこになる。

「ディスク、駄目になるのが早いなあ」故意に穴を開けられたとは夢にも思わない先生は、「こんなに劣化がはやいなら、ディスクを買いなおすのは、やめとこ」と思う。事件は発覚することなく終わる…。

 

という、しょうもない妄想話を先生に話しながらトレーニングしてたら、先生が微笑とともに「それ、ブログに書いたらどうですか」と言うので書いた。〈おわり〉

 

追伸

彫刻刀で、弁を作りながら穴を開けられるかと言うと、多分無理である。

 

成仏シリーズ(7)

前回の投稿に何人かのかたが反応くださって、ありがたかった。昔話を読んでくださってありがとうございました。

書き出したり、反応やコメントをいただいたりすると、まーなんか、親も人間だよなということに気付かされる。よく考えたら、当たり前だよな。一瞬たりとも不機嫌にならない親なんて、この世に存在しないわけで……。

先日、本を読んでいたら、実際の親が支配的な人だったかどうかは問題ではなく、親のどんな影響力を自分に内在化させたかが問題なのだ、ということが書いてあって、そうかと膝を打った。

というのも、同じ親に育てられたのに、妹は父にあまり怒りを抱いていないようなのだ。父は私の学業への取り組みや進路選択において陰に陽に多大な影響力を及ぼしたし、それはほとんど支配だと感じるほどだった。さらに「オマエは俺のおかげで大学受かったんだ」と言われるに及んでは、まったく〝噴飯もの〟であったわけだが(一部は父のおかげではあるけど)、妹はそんなことはなく、ぜんぜん噴飯する気配はない。

それはどういうことかっつうと、妹は私とは違う「父」を内在化させているんだろうな。

父は変わり者であって、オレは伝統にはとらわれない!みたいなことを言って、妙なやりかたを考案したりした。

たとえば七五三だが、うちはフル無視だった。特に不満はなかったけど、どうして七五三のお祝いしないの?と聞いたことはある。そしたら「心のなかでは祝ってるんだ!」ということであった。

それはいい。変だったのは正月のお屠蘇だ。うちは当時、4-4-20という住所に住んでいたのだが、この住所にちなんで「お前たちはお屠蘇を4回、俺とお母さんは10回ずつ口に含むことにしよう」と言い出してわけわからなかった。こういうとき、言うことを聞かないと父は超絶不機嫌に(というか、ものすごくしつこく)なるので、従った覚えがある。

さらに、私の生まれる前、こんなことがあったと母から聞いている。当時うちの職場はビルの3階にあった。火事になって避難できなかったらどうしよう、と思い詰めた父は、ある日突然、避難用の縄梯子を買ってしまう。そして、ともに働いていた母、同僚の皆は縄梯子を使って3階の窓から降りる訓練をさせられたという。それ、一周回ってかえってめちゃ危ないだろ…今なら何の資格もない人が命綱もなしにそんな訓練をするのは法律違反だろう。なおかつ、母によると、その訓練当日に父は不在だったという(高所恐怖症なのだ)。なんやそれ…。

というような(ほかにもあるが)父の変人エピソードを、妹は十代の頃から友達に披露して、笑いを取っていた。私は若い頃はとてもそんな気になれなかったな。ひたすら圧迫感が強くてクセがあって、全然面白くない父親と思ってた(今はネタにさせてもらっているありがとう)。妹は子供の頃から父のおもろさ、独特のかわいさをわかっていたわけで、ほぼ同じ育ち方をしているのになぜ親の違う面を内在化させたのか、不思議だと思う。

まーでもあれか。長女と次女の違いか。長女育てで「そんなに思うようにいかないものなのだ」と学んだ父が、2番目の子育てでやや諦めることによって、妹への声かけなんかが私のときと微妙に違ったのかもな。妹も私の振る舞いを見て学習しただろうし…。

まとまらないが、おわり。

成仏シリーズ(6)恥をかかすな

私が6才のころのこと。休みの日に家族で海へ出かけた。

どことなくうわの空の父が運転し、助手席に母、後ろに妹と私が乗り、三十分ほどで浜辺に着いた。春先のことで、人影はまばらだった。線のひかれていない、だだっぴろい駐車場に入り、父は大きな車の右隣に停めた。

妹が海に興奮して、大声をあげ、勢いよくドアを開ける。

しかしその後、私たちは降りた車からしばらく離れることができなかった。妹の開けたドアが女子大生の車にあたり、相手の車体にわずかな傷がついたのだ。父が、隣の車の2人と話し始める。

ようやく話の終わりに近づき、両親が「申し訳ございません」と謝り、妹も父に促され、ごめんなさいと言った。続いて「さ、謝りなさい」と促されたが、私は「私がやったんじゃないもん」と言ってそっぽを向いてしまった(だって6才である)。

大学生たちはやさしく、「そうだよねぇ、あなたがやったんじゃないよね」と言ってくれたが、時、すでに遅し。父は顔色を変えていた。

場面が飛ぶ。私たちは砂浜を歩いている。

「お前や〇〇(妹)が何かしたら、俺がしたんじゃなくても家族として俺が謝る。お前も〇〇のしたことを謝るのは当たり前だ!姉だろう!俺に恥をかかすな!」とわめく父。私と妹は泣きじゃくる。母のとりなす声は父の耳には入らず、父は私の襟をつかんで私を自分の目の高さまで持ち上げ、「これだけ言ってもわからないか」と激しく怒鳴りつけた。

私は、そんなにひどいことをしたのだろうか?砂浜で小さな子供が襟首を掴まれ、体が宙に浮く場面が、鮮明に思い浮かぶ。

今、想像するに、父はおそらく家を出る時から、ずっと仕事のことを考えていたのだろう。何か解決しがたい問題を考え続け、いらだっていた。そこへ、子供が他人の車を傷つけてしまう。なんとか理性を保つが、もう一人の子供が言うことを聞かない…父は我慢の限界を迎えた、ということだったのではないか。

母もこの件をよく覚えていた。「私はね、お父さんが一番よくないと思う。子供を怒るようなことじゃない。お父さんの車の停め方が、あっちの車に近すぎたんだよ」とあっさり言うので笑ってしまった。

 

とあるCMの話。10才くらいの男の子が、望遠鏡を抱えて車を降りる。その子は、話しかけられた拍子に体ごと振り向いてしまう。望遠鏡がガツン!と当たり、車体が凹む。「ごめんなさい…」と謝る男の子。父親は車体を点検する素振りも見せず、即座に「いい、気にするな」と微笑む。

私はこのCMが、怖くてしょうがない。若い父親が、本当は怒ってるのに、無理に微笑みをつくっているように見えるからだ。いつ怒りがあらわになるのか。男の子に「早く逃げろ!」と言いたい。

 

どうでもいい追伸。上のCM、若い父親じゃなくて叔父でした。