しかたない

父が「お母さん」と母を呼ぶ。

「お母さん」
「なあに」
「ここは、何階だ?2階だよな」
「ちがうよ。マンションだもん」
「マンション?!」
「そうだよ」
「〇〇さんたちはどこにいるんだ」
「〇〇さんは退職したでしょ。年取ったから」
「そうか。なにもわからない」


「お母さん」
「なあに」
「この、ジュース」
「うん」
「こんなうまいものは、なかった」
「なかった?」
「小学生の頃だよ。戦後で、甘いものは、何もなかった。うまいものは何もなかった」
「そう。たくさんあるから、いくらでも飲み」
「うん(飲む)」
「たくさん飲めて、幸せ?」
「うん」


「お母さん」
「なあに」
「あの、生き物は、なんだ」(カレンダーを指す)
「あれは、犬」
「ああそうか」
「犬忘れちゃったの?かわいいでしょ」
「うん」


前にもあったけど、ここ最近の父はまた、母のことを自分の母親と思ってるのかもしれない。

私のことは全然呼んでこないのだけど、それでいいと思う。反抗的な子供のことは、無理に思い出さなくていい。

父は古い記憶の中を旅している。自分が子供だった頃までさかのぼって、涙を流し、いつのまにか寝てしまう。

記憶ってほんとに物理的に、層になっているのだな。ランダムに並んでるわけではないんだ。だって、明らかに、新しい方の記憶からなくなっているもの。

歩けなくなる前、自分が口述筆記で本を書こうとしたことなんか、もう一言も言わない。多分忘れてしまってる。

一応原稿を書き上げて、読んでくれと紙の束を持ってきた時、真面目に読んであげればよかったと思う。すぐに感想を言ってあげればよかったと思う。

でも、読めなかったのだその時は。最初の何ページか読んだだけで、もうれつに恥ずかしくて、それ以上はページがめくれなかった。

主人公の設定が、父そのものではなくて、理想の父、父ダッシュみたいな感じなので、描写でいちいち、お父さんこんなんがよかったのかー、お父さんこうなりたかったのかー、とか引っかかってしまって、全くストーリーが入ってこない。ほんと、しかたなかったあれは。