内側を掘り起こす

服装とレストランの席の話を書いて友達からいくつかコメントをもらった。独りだとぐるぐるして終わるところが、人とやりとりすると、何か新しい考えが浮かんでくるのは本当に面白い。

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別の接客のお話。ツイッターの漫画で前に読んだ:宝石店の展示会にふらりと入った女性。その日とても疲れていてどうしても美しいものが見たくなってふらりと入ってしまった。明らかに客ではないその女性に丁寧に対応し、いろいろなデザインのジュエリーを見せて、帰りには上等な製本のカタログまでくれた店員さん。一流の接客だと思う。

そして私はつっこむ。実はそのふらりと入った女性は、(漫画でこの話を描いていたくらいだから)普段着であっても、美意識のあふれる格好をしていたのではないか。それで只者ではない雰囲気があって、店員さんが声をかけたのではないか。で「今日どうしても美しいものが見たくて…」と言われ、そこに店員さんは共鳴をして丁寧な応対をしたのかも。つまり、この場合、服装で区別はしてないが、美意識で客を区別したのかもしれないよな…

こんなふうにつっこみをいれると、話している事例について、いくらでも場合分けできてしまう。どんどん広がる。議論としてはなりたたなくなってくるけど、でも楽しいと思う。

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これも友達とのやりとりを通じて気づいたけど、服装で客を選別するウェイターさんに言及するとき、実は私は彼の葛藤のなさ(見た目で差別してはいけないという建前は、彼の中でどう処理されている?)をちょっと見下して優越感を感じていないか?それは服装で人を選別する彼となんの違いがあるんだ?なんてことも思う。つっこみ無限大。

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一流のお店のなかでもベストオブベストなお店では、服装で人を選別しないんじゃないか?という考えが、どうしてもぬぐえない。

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私はなにか感情が揺れたときしか、深くものを考えることができない。普段は、仕事早く終わらないかな、ごはんがうまい、ねむい、漫画面白い、これくらいしかモードがない。

そんな自分でも、感情が揺れると、何が感情を揺らしたのか知りたくなる。それは外部からやってきたものの方ではなくて、受け止めた内側の方に核心があるんだよな。内側を掘り起こすと、子供の頃の体験とか、親に言われたことなんかが出てくる。でも今回は、仕事で無意識に葛藤していたことが掘り起こされ出て来て、それが感情のベースになっていたとわかった(友達とのやりとりで気づいた)。仕事って毎日のことだから、いくら私生活と切り離してるつもりでも、どうしても人格に影響を及ぼしてしまうんだ…まったく恐ろしい。たとえば、仕事で何かを我慢していると、同じことをそれほど気にせずスルーしている人のことが、許せなくなったりする。

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平凡な意見、出来事を書いてなんの意味があろうと思っていたけど、まあでも日々を記録することそのものに意味があると思って、はじめたブログ。でも、書くとなにがしかの反応をもらえる。これが次の考えが生まれるためのものすごい駆動力になるので、拙くたって、書くと書かないとでは人生がえらく違ってくるなぁなんてことも今回思いました。これまた恐ろしい話だ。読んでくださるかた、反応をくれるお友達へ:いつもありがとうございます。